冬の大井川3日間 湯巡りと伝統文化に触れる 


 若宮神社・谺石神社の鎮座する梅地・犬間地区に伝承され、毎年1月の第3土曜日の晩の神社祭典に奉納される「梅津神楽」、その歴史は古く文明年間に遡る。山城国梅津の里に住し築地清右衛門菅原重常が故あってこの地に居し、代々住し開発、地名を梅地と改め氏神を勧請、自ら神主の職に就き神楽を創始したと伝える古書がある。故は他にもあるが、総して「文明年間に京都で起こった応仁の乱を逃れ信州飯田を経てこの地に都落ちした築地氏が飯田で習得した湯立て神楽をこの地で氏神を勧請し自らが神主となり神楽を舞ったこと」が始まりと伝えている。
 勧請した神々は築地氏故郷、京都梅津の神々であったことから京都梅津との関わりも深く由緒ある神楽は静岡県の無形民族文化財に指定され今も伝承されている。その神楽を以前から見てみたいと思いつつなかなか敵わなかったが、今年やっと見る事ができた。


 長島ダム建設が決まるまでは梅地・犬間の両地区でそれぞれ隔年で奉納されてきた。しかしダム建設が決まり、犬間の集落が水没することとなると、この地に残る者・山を降り街へ出て行く者と大きく揺れたという。神楽伝承にもダム建設は大きな障害となった。その後は毎年梅地公民館で舞われることとなり、ダム建設により減少した継承者を補うが如く、地元の中学生達に神楽を教えていると言う。

 ダム建設により水没する地区に住む人々が転出組・残留組と分かれ一時対立が起こったという。しかし神楽になると一緒になって盛り上げたそうだ。それだけ大切な神楽は昔は山峡の街一番の娯楽だった名残であろう。


平成17年の演目一覧


 過去、神楽は夕暮れから翌朝の日の出の頃まで夜通し舞われたという。時代の流れと共に一部の舞が削られ今では日が変わる前に全てが舞われる。今年の演目は全15舞、途中に井川神楽保存会による井川神楽が2演され17舞が奉納された。現地に着いた時にはすでに4舞目に入っていた。「八幡の舞」には唯一小学生が入り大人と一緒に見事な舞を奉納した。


 「鬼の舞」、鬼が舞うと言うと荒々しく暴れ回る舞を想像しるが、この舞は「昔、作物を荒らしたり農民を脅かすなど多くの悪事を働いた鬼を村人が懲らしめようとその鬼の子を鬼の目の届かぬところに隠してしまい、鬼といえども我子恋しさに涙にくれて方々を探し歩く様子を表現した」と言う荒々しさのない静かな舞。鬼面を付け一人で五方を舞う姿は鬼らしからぬ一面を見せる。


 年季の入った太鼓は明治時代に作ったものだと言う。過去一度だけ破れた事があったと言うがそれ以来ずっとこの太鼓で神楽が続けられている。鋲頭が錆落ち堤も剥けたところが多く見られる。笛の音も毎週土曜日に練習を重ね、中学生からご年配まで交代で笛を奏でる。そして時間を追う毎に地元の方々を始め集落を離れた方など神楽を見に来た人々で会場がごった返す。


 梅津大納言を祭った「殿の舞」、そして4人の道浄が神歌を歌いながら五方を舞う「八王子の舞」へと続く。舞は四方形を崩さずに時計回りにまわり右手に鈴・左手に白刃を持って舞う。


25分にも及ぶと楽屋(笛)の方々にも疲れが見られる。同じ動きが延々と続き白刃を振り鈴を鳴らす。そしてまた時計回りに舞続ける。


太鼓を打つ手にも力が入る。時間の経過と共にその勢いは増し道浄に気合を入れているかの如く打ち鳴らされる。

道浄の額からは汗が流れ落ちる。


 続いて「恵比寿大国の舞」へ。恵比寿・大国が五方をとり舞い、五方から鯛を釣り上げる。釣り上げた鯛を横取りしようと登場する道化との攻防がユーモラスに舞われている。


道化と恵比寿が去り翁が登場すると「翁の舞」へ。土産を持参した翁はそれぞれの解説をしつつ笑いをとる。男根上の棒を腰から下げている。


 後半には下ネタが登場し会場内を笑の渦に巻き込み共々去っていく。今年は中川根町との合併を記念すべく話も出てその年々で翁の語りが変わるようだ。大きな箱からチャボが客席へ飛び立ったのには驚かされた(酉年を演じたそうだ)


「宇須売の舞」、五方をゆっくりしとやかに舞う宇須売のまわりを男根状の棒を腰につけた道化がカマケを演じる。宇須売の衣装は以前はその年に嫁入りした服物を使い、安産が約束されたと言う。


 そして神楽舞は佳境に入り「金丸の舞」へ。「鬼の舞」の鬼面に似たような金丸面をした金丸大明神が五方を舞い、暫くすると荒々しく舞いはじめる。太鼓に飛び乗ったり装飾を切り刻んだりとやりたい放題に荒れ舞う。


 やがて道化が出て金丸に男根状の棒を擦り付けたり見せたりしてさらに荒れ狂い道化を足蹴にして暴れる。暫く暴れると見兼ねた神主が現れ清めを金丸に差出し鎮める。今年は舞方がいくつもの舞を舞ったため例年のような荒れ方はしなかったそうだ。


 「米の舞」、ゴザ返しの舞とも呼ばれる神返しの舞。神歌を歌いながら頭越しに後へ米を散く。五方に同じ所作が繰り回され終わる。


 「〆切の行事」、これも神返しの儀、神前に祝詞を奉上、折りかけを二度ふり印を結ぶ。二拍手して神酒の蓋をする。蝋燭の火を消し白刃をもち神歌を歌いながら五方のシメダレを切る。最後に注連縄を切るところから「〆切の行事」と呼ばれる。


「大弓の舞」、矢を放ち清める。神歌を歌いながら五方を舞い大弓矢を振り込む。その後同じ様に五方に矢を放つ。


 放たれた矢は客席にまわり持ち帰ることが出来る。厄除けになるのだろうか。矢を放ち終わると神事を行い神楽舞が全て終わる。16時半頃から始まり終わったのが23時頃、今の時代にこれだけ長い時間舞うことは少なくなっているだろう。これでもまだ全体の半分程度なのだと言う。
 人口の減少と共に消えていった神楽舞は数多く存在すると聞く。実際、大井川流域でも「笹間神楽」が一時期絶えた。「梅津神楽」も他人事ではないだろう。神楽が末永く舞い続けられる様に、この地を離れてしまった方々にも目を向けなおしてほしいものだ。


梅津神楽を伝えるのに不十分な写真・文章で大変申し訳ないですが、ぜひ実際に舞を見て感じて頂ければと思う。

この後、宿に戻ったが諸々あって温泉に浸かったのは2時頃、湯上りの一杯を呑んで寝たのが3時半頃であった。


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